どーして会社を始めたのか(3)

留年するときはさすがにあせりました。

単位の足りない課目の教官に頭を下げて回りましたが、結局全部だめ。ものの見事に留年しました。

留年が決まって親に電話したとき、激しく泣いてました。私の母はすごく真面目で、普通に学校行って、普通に卒業して、普通に仕事して、平凡でも良いから元気に育ってほしい。そう願っていたのです。それに気づいたのは就職後。当時はかなりぶつかりあった記憶があります。

母の涙とは裏腹に、自分はあまり後悔が無かったんですよね。

4年生2回目の新クラス。ぱっと見の印象が「みんな非常に仲がいい」。普通クラスならグループがたくさんあったりしますが、新クラスはそんな事が無くみな共通して仲が良い。そのクラスの雰囲気が「留年してよかった」と思えるくらい新鮮で、今の友人は留年後に出来た友人が多いんです。

パチスロは半分くらい自粛して(それでも通ってました笑)、学校は出来る限り休まず、そこそこ真面目に通っていました。

そんな私でも4年生→5年生となり、就職活動、卒業研究となりました。

就職はちゃんと働こうと思い、真面目に探していました。そこまで勝っているならパチプロやれば良いのにって良く言われましたが、現状のまま台の改正が無ければ勝ち続けていたかもしれませんが、いつ改正が起きるかわからないので未来は無いと判断していました。案の定、今の台ではパチプロも大変そうです。

ただ、やりたい仕事は無かったので、給与が良く、休みもしっかりあるところを選んで面接に行きました。

面接は札幌だったのですが、社長室に入るとガラの悪そうな専務と社長が座っていまして・・・専務に「留年してるけど、ちゃんと卒業できるのか?」と聞かれ、私は「はい、絶対出来ます」と意味も無く自身ありげに答えてしまいました。確証なんて無いのに(笑)この言葉のやり取りが、まさか自分の人生を大きく変えることになるなんて・・・

話を戻して。

金属組織の変位をプログラミングすると言う材料学を専攻していたのですが、実は研究には2度行ったっきりで半年間行きませんでした。やはりパチスロに夢中で、授業が終わったら研究よりパチスロみたいな感じだったんですよね・・・

それだけ駄目駄目な学生だったのに、卒業研究発表が近づいて「いよいよやばい」と思い先生のところに行ったら、

「あ、小林君。君来ないから僕が研究しちゃったよ。早くレポート書いて!」と言われ、なんも研究していないのにレポートだけ書くことに。それも去年書いた人と同じ研究を先生がやっていたので、レポートもアルバイトを雇って打たせる始末・・・その間自分はまたパチスロに行ってまして、発表前だけスピーチの練習をして、何とか無事発表も終わりました。

悪いことばかり書いている気がしますが、読み返してみると「やりたいことにはとことん情熱をつぎ込む」、「徹底的に効率を重視する」、「自分の中でどうでもいいものは割り切って捨ててしまう」、という性格だって事がわかりますね。

次回に続く。

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